パリで博士課程に在籍していらっしゃるという、
paul-paris さんのブログ
A VIEW FROM PARIS パリから観る
--- le savoir, c'est le salut ---
の、2月18日付エントリー記事から。
自らの快楽を追求すればするほど、同じように快楽を追及している人を認めざるを得なくなる。その個人を認めざるを得なくなる。この基本があって初めて、公を論じることができるはずである。日本ではこの前段がなく、最初から公が論じられる傾向が強いような印象がある。そこでは抽象的な公が否応なくあり、本来やらなければならない自らの快楽を真剣に考えることなく過ごしているのではないか。それぞれの快楽の追求の度合いが著しく低い、あるいは真の追求を怠っていると言えるのではないか。そこから本当の公が生まれるだろうか。本当にそこに生きる人が満たされる環境が生まれるだろうか。
(中略)
日本では未だに世界における日本人の存在感が薄いと叫ばれ、国際化なるものが求められている。これも私には同根の問題に見える。それは個による快楽の追求、言葉に抵抗があれば、自らが深いところで何を欲しているのかを探る営み、それを通して個が語り合うことができる環境がないことと関連しているように見える。それがないところには真の社会性、地球規模で言えば国際性は生まれないだろう。その解決には、まずそれぞれが自らの快楽の追求を通して自らを観る営みを始めることではないだろうか。その度合いが強ければ強いほどそれぞれの求めるところに大きな違いがあることに気付き、そのような追及をしている他者を認めることができるようになるだろう。そうなった時初めて、われわれの周りから溌剌としてものが迸り出てくるような気がしていたが、妄想だろうか。
今回フランスに来てから、今月末で7カ月が経過しますが、
なんとなく漠然と感じてきたことが、
まさにそのまま文章になっています。
フランス人と日本人って、同じ人間のはずなのに
どうしてこんなに違うんだろう、
なんでフランス人はこんなに人生を楽しんでいるの?と、
折に触れ感じていたのですが。
paul-parisさん、まったく面識はないのですが、
ブログに書いておられる内容から刺激を受けることが多いです。